夫婦「完結出生児」2・09人、従来水準から急減(読売新聞)
今回の「国立社会保障・人口問題研究所」の調査結果ですが、その分析内容といっている記事は「要注意」です。
以前、自民党の森喜朗氏が「男女共同参画基本計画(第一次)は失敗だった」と述べていますが、いま森氏や安倍晋三氏をはじめとする自民党の“主流派”は「男女共同参画」を「女性票獲得のツール」としか考えていません。むしろ「男女共同参画」の基礎部分を徹底的に骨抜きにし、「家族」という基本共同体の中に女性を縛り(憲法二十四条改正を狙う目的はこれ)、先頃決定された「新しい少子化対策」
(参考記事)に盛り込まれている「家族の重要性の再認識を促す国民運動」も、秘めた最終目的はまさにこのことではないかと考えられる)、大日本帝国憲法+旧民法時代のような“男尊女卑社会”を復権することを狙っているようにも見えます。その方が、国民全体に、自民党の財力を支える財界からの強い要請(財界側としては「軍需関連で大儲けしたい」という一心)に基づく「憲法九条改正OK」「戦争参加OK」の根回しをしやすいからです。
今回の“分析内容記事”は、そうした自民党側の意向を受けて、「意識的に歪曲した“想像される原因”を発表している」ように見受けられます。
結果の概要(PDF)をご覧いただければおわかりになるとおり、正式な発表資料には「男女雇用機会均等法」という文字列はまったく登場していません。むしろ、「妻の就業経歴による出生子ども数に大きな差はない」とはっきり謳った見出しがあるのが「事実」です。
しかも、相変わらず子どもを産まない理由のトップは「子育て・教育にお金がかかりすぎるから」。しかも前回調査よりそう思う人の割合は増加しています。
子どもが消費世界に否応なく組み込まれ、かつお金をかけて塾や私立を中心とした進学校に通わせるなどしないと十分な教育が受けられない昨今。しかも、小泉首相の「格差が出るのは別に悪いこととは思っていない」という発言に象徴されるように、ごく少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」を作る社会の出現により、子どもに対するそんな親の思いまでもが、無に帰する可能性を大きくはらんでいる、というのがここ昨今の状況ではないでしょうか。
しかも「出産後も就業を継続する妻は増えていない」という見出しまであります。「出産後も就業を継続する妻」が増えれば、子育ての経済的問題の解消に大いに役立つはずなのですが、実際にはそうなっていない。このことこそ、むしろ「男女雇用機会均等法」が、そしていままでの「少子化対策」自体が実効をあげていない、その確たる証拠といえるのではないでしょうか?
そんな世の中で、出生率の低下に歯止めをかけることに、「男女共同参画」の基礎部分を徹底的に骨抜きにすることがどういうロジックから「有効」と考えられているのでしょうか?
いまの政府・自民党の基本政策は、「子どもは必要最小限だけしか産まないでください。2100年の人口が半減、いや6割、7割減ってもかまいません。」と言っているのと同じです。そして、その結果が国としての活力の低下、経済の減退につながっていくことは、
「平成16年版 少子化社会白書」の第三章第二節にも謳われているとおりです。そしてそれは当然、財界にとっても歓迎されざることであるはずです。
この強烈な自己矛盾を解消するだけの「智慧」がいまの政府・自民党にあるのか、
徹底的に問いただしたいところです。
※ちなみに、「家族の大切さ」については否定するものではありません。その言葉の持つ意味を巧みに別の問題意識へのすり替えに利用しようとしている、そのことが問題なのです。
きょうは憲法記念日。
いまの
憲法改正動議について、その基本路線と性急な改正を許してはならない理由を、ここで復習しておくことにしましょう。
きょう(2006/05/03)の朝日新聞「天声人語」には、大変重要な内容が含まれています。それは、先日亡くなった米国の経済学者・ガルブレイスさんの言葉です。
「(米国の)誤りの根源は、企業の利益と軍事的な影響のもとで外交政策が実行されていることにある」。
このような外交政策を実行しているアメリカのもとで、外交についてどうしようもなく無策な日本政府(特に米国盲従の小泉首相)は、米国と同じように財界=大企業の利益誘導発言に後押しされて、憲法改正への道を進みはじめているのです。
財界は、少なくとも
自民党にとっては、最大の資金源です。彼らから徴収する税金(=少なくとも建前上は国民のために還流されるお金)を少なくし、彼らの利益が最大化するように政策によってサポートする。そのかわりに、たくさんの政治献金(=政治のためだけに使われ、国民には還流されないお金)を受け取り、政党運営を円滑に進める。そのことで、自民党の繁栄は続いてきましたし、「構造改革」とかいいながら、自民党の運営を円滑化するこれらの「構造」には、一向に手をつけようとしません。「
政・官・業の癒着」の解消についても、小泉首相が行ってきたのは、「政」による「官」の操作(小泉首相の意向への従属化)と、「官」の仕事を「業」に再配分する「小さな政府」「官から民へ」の政策だけであり、「政」と「業」については、むしろ癒着歓迎の節もうかがえる始末です。しかも、困ったことに、最近では
民主党も、「業」の言うことを聞こう、という方向に歩み始めてしまっているようにも見えます。
現在の財界にとって、政策介入のいちばんの狙いは、まず「軍需産業を繁栄させること」です。アメリカ合衆国がそうであるように、それがひいてはすべての産業に潤いを与える、というのが、ニッポン財界のものの考え方のようです。ただし、そのためには軍事費をもっと使う国にならなければならない。しかし現在の縛りでは、イラクに自衛隊を派遣しても“軍事的なこと”ができないので、儲けにならない。そこで憲法を“改正”して、海外で戦争のできる国になろう、という案が持ち上がってきているのです。
こんな状況の中で、多くの国民は、どうされようとしているのでしょうか。
まずは教育基本法を“改正”して、「議論のできる国民」ではなく、「(政・官・業の意見を統一した結果としての)“愛国”の考え方」に賛同してそれを活用する人材=「政・官・財」界が欲しがるごく一部の「エリート」=と、その他大勢の「その考え方(まあ、ひとことで言えば「お上のいうことには黙って従え」ということですな)に盲従する臣民」とを作る。ついで国民投票法を成立させ、その上で憲法第九条を改正して、正式に「海外で戦争のできる国」になる。合わせて税制を大改革して、より多くの国民からより多くの税金を巻き上げ、いままで以上に軍事にお金を使う。さらに憲法第二十四条を改正し、「個人」単位ではなく「家」単位を末端とする国家からの指揮系統を統一化させ(そこにあるのは、戦前の民法規定のごとき「家父長」制と、それに従わされる他の家族、という関係)、さらに「国民保護法」という名の「国民動員法」によって、広く国民を自由に戦争荷担させる。
……いかがでしょう? いまの国会の状況に「大政翼賛会」を思い出す方も少なくはないでしょうし、いまが「戦前」だ、という感覚も、もはや当たり前のものになりつつある、と思います。時代劇にありがちな袖の下をもらう役人と差し出す商人、という構図は、現代に至ってもまったく変わっていないのです。しかも、それがどう見ても「国民の利益」ひいては「世界の平和」に反する行為だとしたら……。
もちろん、いまの憲法よりもっと国家への縛りを強くしたらどうか、という意味での「改憲」論議もあります。いまの条文に加えて、「集団的自衛権」の行使や国外での自衛隊の行為にいまより強い制約を設ける、といった趣旨のものです。私もそれらの議論を支持します。しかし、いまの段階でそういった話題を持ち出すことがどのような結語へとたどりつくのかは、「憲法」を「国家」から「国民」への「縛り」へと変えようとする“政治家”が跳梁跋扈する政治の状況、特に衆議院議員の政党別比率などからみて、まさに「多勢に無勢」と言わざるを得ません。だからこそ、「性急な憲法改正」の動きに対して、いまはまず反対勢力を結集するしかないのです。
繰り返します。一般法律が「国家」から「国民」への「縛り」であるのに対して、憲法は「国民」から「国家」への「縛り」です。この国を「戦争のできる国」にするのか、「戦争しない国」のまま保持させるのかは、誰の問題でもない、私たち国民ひとりひとりの問題です。国民ひとりひとりの意見が、国家の行動に縛りを与える、そのことを忘れずに、これからもこの素晴らしい日本国憲法に向き合っていきたいものです。衆院千葉7区補選:首相の「劇場型」選挙戦術に見直し論(毎日新聞)
民主党がこの選挙結果に勢いづくのではないか、と書いているが、そんなに楽観視していいのだろうか。
記事をよく読むと見えてくるが、今回の
選挙結果は「
民主党」およびその候補が良かったから勝てたのではなくて、
自民党がいままで庶民を騙し仰せていた
「劇場型」選挙活動の化けの皮が剥がれて(それだけ庶民が[少しは]賢くなった、とも言える)、結果的に自滅しただけである。それを率直に分析・評価した結果が、自民党内での選挙活動見直し論なのであって、来年の参議院議員選挙に向けて今回の反省をもとにした地道な選挙活動をきっちり実行してこられたら、いまの民主党ではひとたまりもない、と強く感じる。
むしろ、今度の選挙結果で党内を(さらに)引き締めるべきは民主党の方であって、にせメールの件を引き合いに出すまでもなく、党内での危機管理をきちんと見直し、地に足の着いた活動をしていくことが、今回の選挙結果に出てきた「民意」を汲むことにつながる、とよくよく自戒すべきである。
天下り停止、一転見送り 奥田経団連会長
あきれてモノが言えない、とはまさにこのことである。
日本経団連の奥田碩会長は11日記者会見し、橋梁(きょうりょう)談合事件の温床とされる中央省庁幹部の天下り受け入れ停止について「考えたが難しい。公務員は行くところがなくなり簡単にだめとは言えない」と述べ、検討するとしたこれまでの方針から、一転して会員企業への停止要請を見送ることを明らかにした。談合については「すぐにやめるのは難しい」との持論をあらためて強調した。
結局大企業は、官庁からの天下りを受け入れることで、公共事業の受注を通して会社の収益が潤うことに満足している、というかある程度頼っている、ということが、この発言にはよく現れている。しかも、談合について「すぐにやめられない」という発言は、大いに問題である。こういう発言がある以上、公正取引委員会には、もっと厳正に「談合」に対処していただきたいし、「自由競争」を標榜する欧米の方々は、徹底的に弾圧を加えていただきたい(ただし、原則論として「アメリカン・スタンダード」という名の「グローバル・スタンダード」導入には私は反対だが)。しかも、大企業側はおいしい汁を吸っておいて、そのウラで「官」と「談合」して、労働者側には増税、労働基準法改悪など、次々と厳しい仕打ちを仕掛けてきている。
この構図を変えられるのは、一般有権者の良識以外にあり得ない。郵政改革法案が成立する、しないに関わらず総選挙、という噂も飛び交う昨今。ほんとうに総選挙が行われるとしたら、「争点のない選挙」ではなく、改めて「政・官・業」癒着の構図を断ち切るための選挙にしたい、そんな「決意」を持たせるに充分な発言でもある。
まずはURLを晒すので、じっくりご覧いただきたい。
http://www.jimin.jp/jimin/info/jender/
……そう、"gender"ではなく"jender"である。この時点でいかに「ジェンダー」という概念に対して不勉強であるか、すっかり露呈してしまっている。天下の自由民主党ともあろうものが、いったい何を考えているのか。
改めて解説しておく。かわいそうにかなり勘違いされている言葉ではあるが、「ジェンダーフリー」とは、「性差否定」を表現するためのことばではなく、「女性である、あるいは男性である、ということによって、自分らしく生きることを否定されてしまう」ことからの脱却を目指している概念である。キーワードは「男らしさ」「女らしさ」ではなく「自分らしさ」である。
「ジェンダーフリー」が目指しているのは、あくまでも「社会的性差」をなくすことだけである。自由民主党は「文化的性差」の否定に躍起になっているようであるが、そこには「人間」ではなく、「習慣」が主体になってしまっている、いつもの、といってもいい「人権軽視」の姿が見え隠れしている。同じようなことは「人権擁護法案」にも言える。政権政党にとてもふさわしいとはいえないこの不勉強ぶりには、怒りを通り越してあきれてしまうほどである。私の自由民主党への要求はただひとつ、顔を洗って、勉強し直して出直してくることである。
参考:
「嗚呼女子大生活」(5/22)
「弱気だってあるかもしれない日記」(5/24)