「Publicity」第1082号より引用:デリー在住・西形公一さんの投稿(部分)
感覚的かつ素朴に、もしかすると道徳的に「平和憲法」を信
じてきた方々の、「平和」優越の憲法論こそが、日本のリベラ
リズムを内部から蝕んできたのですよ。
ひとの生き方はそれぞれですから、感覚的かつ素朴に自己の感
覚を信じて生きるのは個人の自由です。
しかし、それが立憲国家の、あるいは憲法の意思であってはな
らない。「平和」に優先的な地位を与えリベラリズムを軽んじ
るということは、人権に基づく「法治主義」を軽んじるのとイ
コールであることに、なぜ気づかないのでしょうか。
人権思想のもとの法治主義(「立憲主義」ともいう)は表現の
多様性のもとにあることに、なぜ気づかないのでしょうか。
「Publicity」第1085号より引用:秋野ゆたかさん@東京の投稿(一部割愛)
西形さん@デリーのご投稿、考えさせられました。
平和主義が第一で、人権はその次という憲法論には、びっくり
。暗澹としてきます。
戦後の護憲派のいろんな謎が解けるなあとも思いました。
わたしは、しろうと考えですけど、憲法の中心は13条だと思
います。
「このくにでは、ひとりひとりがたいせつにされる。それは、
生きたい、自由でありたい、しあわせになりたい(D.H.ロ
レンスが書いたみたい(^_^)v)という、ひとりひとりの願望(
欲望だね、むしろ)がたいせつにされるということ。
そういう人権の行使がほかの人の人権とぶつかってしまうとき
には、政府は割って入って、制限してもいいけど、それはあく
までも法律でやらなくてはだめ」ということでしょ、13条っ
て。
憲法はわたしたちが政府をしばる道具だけど、13条は、政府
はわたしたちをしばってもいいよ、と言っているところでもあ
る(そこの人、へんな妄想はしないでください)。
でも、それはかならず法律でやらなくてはだめ、と言っていて
、憲法(と教育基本法もか)とそれ以外のすべての法律の関係
、言い換えればわたしたちと政府の統治についての約束が、こ
の短い条文で言われていると思います。
で、ひとりひとりがたいせつにされない状態とは、と、とこと
ん(根源的という意味でラディカルに)考えていくと、それは
政府が戦争をしている状態だ、だから政府に戦争をやらせるわ
けにはいかないんだ、ということで、9条が出てくるのではな
いでしょうか。
憲法成立のいきさつはともあれ、憲法の内在論理だけ追うと、
人権から平和主義へ、ということになると、わたしは思います。
だから、このくにの憲法は、平和憲法というよりは、ラディカ
ル人権憲法だと思う。
なのに、たとえばアムネスティ・インターナショナルなんかか
らもぼろくそに言われているのが、このくにの人権の実態なん
ですよね……。
同じく第1085号でも紹介されている日本国憲法の前文には、こう書かれている。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
以上まとめると、どうも、日本という国では、「戦争放棄」というまさに「押しつけられた」(良い意味か悪い意味かは別として)条文に目が奪われすぎて、前文のもっとも大切であるはずの第一節よりも、「戦争放棄」に特化した第二節の方に重点が置かれすぎてしまった、ということらしい。で、前文第二節の最後に書かれている「平和のうちに生存する権利」という言葉が象徴する、「平和」>「人権」という不等号に従って考え、行動してきたのではないか、と。
この国は「教育」をどう考えているのか?――「先進国最低水準」の評価は真っ当という記事で紹介した内容なども、まさにわが国で「人権」が最重視項目になっていないことを如実に物語っている、といえる。
「教育」とは、まさに国民一人一人の「知る権利」の実現手段である。しかし、昨今の教育基本法の改正論議からも見えて来るとおり、国民の側に立つべき国会議員たちが、あろうことか官僚とともに政府の側に立って行動し、国民の「知る権利」に枠をはめようとしているように見える。
たとえば、改正案の第三条などは、明らかに「教育」に関して国連の委員会から指摘されていることをないがしろにするものであろう。
(引用部分は「教育基本法の改悪を止めよう!全国連絡会」ホームページ内「現在の教育基本法と与党「改正」案対照比較」より)
教育の機会均等(第三条)
【現行法】
すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
○2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
【「改正」案】
国民は、能力に応じた教育を受ける機会を与えられ、人種、信条、性別等によって差別されないこと。
国・地方公共団体は、奨学に関する施策を講じること。
「すべて」「等しく」「なければならない」を削除。「社会的身分、経済的地位又は門地」による差別禁止を削除。「経済的理由による修学困難への奨学」義務も削除。――国家に課された機会均等義務を全面否定。
……この案にしろ、憲法第24条の改正論議(「家庭を保護する」という表現を用いながら、実は家庭の構成員の中に「序列」を復活させよう、という試み=「男女平等」をおびやかす内容でもある=)にしろ、「人権」がすべてに優先する、という考え方がないがしろにされているために起こっていることは言を待たない(恐ろしいことに、自由民主党が昨年11月に発表[12月にいったん撤回]された「憲法改正草案大綱」(リンク先は「憲法改悪反対共同センター」内)には、「人権のインフレーションに歯止めをかける」なる文言まで登場する!)。この国を間違った方向へ舵取りさせないために、一番重要なことは何なのか。われわれが安心して与えられた生を「生かされ」、まっとうできる社会を作り上げていくために、どういう考え方をもって臨んでいけばいいのか。常にそのことを考えながら、もう少しペースを上げつつ、今年もエントリーし続けていきたい。
これが、新年を迎えての私の所感である。

