いまの憲法改正動議について、その基本路線と性急な改正を許してはならない理由を、ここで復習しておくことにしましょう。
きょう(2006/05/03)の朝日新聞「天声人語」には、大変重要な内容が含まれています。それは、先日亡くなった米国の経済学者・ガルブレイスさんの言葉です。
「(米国の)誤りの根源は、企業の利益と軍事的な影響のもとで外交政策が実行されていることにある」。
このような外交政策を実行しているアメリカのもとで、外交についてどうしようもなく無策な日本政府(特に米国盲従の小泉首相)は、米国と同じように財界=大企業の利益誘導発言に後押しされて、憲法改正への道を進みはじめているのです。
財界は、少なくとも自民党にとっては、最大の資金源です。彼らから徴収する税金(=少なくとも建前上は国民のために還流されるお金)を少なくし、彼らの利益が最大化するように政策によってサポートする。そのかわりに、たくさんの政治献金(=政治のためだけに使われ、国民には還流されないお金)を受け取り、政党運営を円滑に進める。そのことで、自民党の繁栄は続いてきましたし、「構造改革」とかいいながら、自民党の運営を円滑化するこれらの「構造」には、一向に手をつけようとしません。「政・官・業の癒着」の解消についても、小泉首相が行ってきたのは、「政」による「官」の操作(小泉首相の意向への従属化)と、「官」の仕事を「業」に再配分する「小さな政府」「官から民へ」の政策だけであり、「政」と「業」については、むしろ癒着歓迎の節もうかがえる始末です。しかも、困ったことに、最近では
現在の財界にとって、政策介入のいちばんの狙いは、まず「軍需産業を繁栄させること」です。アメリカ合衆国がそうであるように、それがひいてはすべての産業に潤いを与える、というのが、ニッポン財界のものの考え方のようです。ただし、そのためには軍事費をもっと使う国にならなければならない。しかし現在の縛りでは、イラクに自衛隊を派遣しても“軍事的なこと”ができないので、儲けにならない。そこで憲法を“改正”して、海外で戦争のできる国になろう、という案が持ち上がってきているのです。
こんな状況の中で、多くの国民は、どうされようとしているのでしょうか。
まずは教育基本法を“改正”して、「議論のできる国民」ではなく、「(政・官・業の意見を統一した結果としての)“愛国”の考え方」に賛同してそれを活用する人材=「政・官・財」界が欲しがるごく一部の「エリート」=と、その他大勢の「その考え方(まあ、ひとことで言えば「お上のいうことには黙って従え」ということですな)に盲従する臣民」とを作る。ついで国民投票法を成立させ、その上で憲法第九条を改正して、正式に「海外で戦争のできる国」になる。合わせて税制を大改革して、より多くの国民からより多くの税金を巻き上げ、いままで以上に軍事にお金を使う。さらに憲法第二十四条を改正し、「個人」単位ではなく「家」単位を末端とする国家からの指揮系統を統一化させ(そこにあるのは、戦前の民法規定のごとき「家父長」制と、それに従わされる他の家族、という関係)、さらに「国民保護法」という名の「国民動員法」によって、広く国民を自由に戦争荷担させる。
……いかがでしょう? いまの国会の状況に「大政翼賛会」を思い出す方も少なくはないでしょうし、いまが「戦前」だ、という感覚も、もはや当たり前のものになりつつある、と思います。時代劇にありがちな袖の下をもらう役人と差し出す商人、という構図は、現代に至ってもまったく変わっていないのです。しかも、それがどう見ても「国民の利益」ひいては「世界の平和」に反する行為だとしたら……。
もちろん、いまの憲法よりもっと国家への縛りを強くしたらどうか、という意味での「改憲」論議もあります。いまの条文に加えて、「集団的自衛権」の行使や国外での自衛隊の行為にいまより強い制約を設ける、といった趣旨のものです。私もそれらの議論を支持します。しかし、いまの段階でそういった話題を持ち出すことがどのような結語へとたどりつくのかは、「憲法」を「国家」から「国民」への「縛り」へと変えようとする“政治家”が跳梁跋扈する政治の状況、特に衆議院議員の政党別比率などからみて、まさに「多勢に無勢」と言わざるを得ません。だからこそ、「性急な憲法改正」の動きに対して、いまはまず反対勢力を結集するしかないのです。
繰り返します。一般法律が「国家」から「国民」への「縛り」であるのに対して、憲法は「国民」から「国家」への「縛り」です。この国を「戦争のできる国」にするのか、「戦争しない国」のまま保持させるのかは、誰の問題でもない、私たち国民ひとりひとりの問題です。国民ひとりひとりの意見が、国家の行動に縛りを与える、そのことを忘れずに、これからもこの素晴らしい日本国憲法に向き合っていきたいものです。

